NOV.17.2008
「『群青の空を越えて』についての雑感」を読んでの雑感
『群青の空を越えて』についての雑感 - tukinohaの絶対ブログ領域
「「円経済圏」という物語世界を支配する思想が詳細に説明されながら、それが「建前」でしかないことを見せ付ける終盤の展開には多少の戸惑いすら覚えましたが」といっているその「戸惑い」という感覚がぼくにはちょっと分からなかったりして、つまり新たな社会システムといえど、システムである以上、それが建前でありつづけることは国民・国家といった概念がつねにフィクション・擬制である以上あたりまえじゃね、とか思ったりするんですね。そこのところは所与の前提だから個人的には戸惑いようがない。いみじくも「現代の国民国家が限界に来ているからといって、国家そのものが限界だとは言えないよね」と指摘されているように、円経済圏思想も「現国家」という擬制に取って代わる別の擬制なのであり、人間が社会というどこにも存在しないものを作りあげるための建前であることに違いはないのです。
グランドルートの劈頭、関西という革命を起こされた側≒正統な日本が、関東という革命を企図した側の「兵士」、つまり飛行予備生徒を、まあ欠席裁判ではありましたが日本の現行国内法で裁いてみせるシーンがあります。あれには、現行法で犯罪として認定することによって、現状の革命を「現在のシステム」の内部の問題へと回収し、革命者による「新たなシステムの立ち上げ」を無視できるという効果がある。現政権にとって新システムは都合が悪いだけだから、自分のシステムのなかで処理してしまうことでそもそもそれが革命であることを認めない(まともに戦争をすると、相手もまたひとつのシステムであると認めてしまう)。逆に、革命が成就したならば旧政権の裁判はまちがいなく新政権によって無効になるわけですが、このことは旧政権のシステムも泡沫のものであることを表している。このように革命の可能性とその非承認が成り立ち、またおたがいの宣言をおたがいが形式的に取り消してしまえるということは、現在のシステムも、それを否定しようとする新たな思想も、つねに擬制であることの証左になりうるでしょう(社の父親が「幻想」と言い切ってしまっていることからいまさらではありますけれども)。社たちがやろうとしていたのは結局「いま、この瞬間のシステム」の解体と再構築であって、システムそのものの根絶ではない。だからこそグランドルートは円経済圏という思想をひとつの建前として推すしかなかったのではなかろうかと。
で、グランドルートが擬制である社会同士の闘争を露骨にしたんではないかという想定を踏まえたうえで、この先は筋の悪い感想であることを承知したまま書いてしまうんですが。
社会の擬制を維持する最後の防波堤となるのは警察や軍隊といったフィジカルな暴力装置だから、擬制を丸ごと置換するには古い体制の暴力と直接対峙するしかない。『群青』における関東の面々は社会の幸せのためにシステムを入れ替えようと闘っていますけれど、暴力で傷ついた彼らの先にあるものはシステムによって実現された「社会における幸福の総和の増大」という個々を捨象した現象であって、それぞれ自身の具体的な利益ではありません。結局、幸福なる新たな社会という漠然としたフィクションを成立させるために、いま現在実体としてある自分の生命が脅かされてしまう(=不幸に陥る)という葛藤を彼らは抱いている。
そしてたぶん、恋愛というのはつねに「このわたし」の個人的な体験としてあるものだから、フィクショナルなシステムがもたらす平均的な幸福とは対極に位置するでしょう。個別ルートで描かれる滑稽なほど「突き抜けた」恋愛劇は、社会の擬制性がもっとも顕わになる革命という状況と対置されて照らされているように見えます。擬制が牙をむくならば、擬制とは無関係に幸福になってしまおうという企み。彼らの恋愛は社会の擬制性を通してみることでより輝くことになる。「戦争の話は背景で、主題ではありません」、たしかにそのとおりかもしれませんが、しかしぼくには「この作品が描きたかったのは、ただ純粋な恋愛話だった」とまで言いきる勇気はない。両者はどちらが主題になってもよい――というより「擬制-戦争(革命)/実体-恋愛」の関係だけがある気がするのです。コインを縦に割ることはできないわけで。
そういうふうに捉えると、日下部加奈子ルートと水木若菜ルートの対比が印象的なんですよね。最終的に「思想なんてどうでもいいよ、俺たちは~の為に戦うんだ!という割り切り方」に収束していく加奈子ルートと、社が若菜に「君のためには死ねない」と告げて社会との関係に生きていこうとする若菜ルート。前者は苛烈な戦闘が繰り広げられて多くの仲間が死んだ末に世間との交渉を断った北国の僻地で2人であることが強調されるエンディングを迎え、後者は最後に革命騒動の一定の効果が示唆されて家庭という単位で社会へと帰っていく。すべてのヒロインを攻略したあとに開くグランドルートがより擬制社会同士の対立に主眼を置いた物語であるとするなら(最後の物語だからそれが『群青』の主題なのだとはいいませんが)、「君のためには死ねない」という台詞こそがその導入だったかもしれません。実際、グランドルートへのコミットの度合いは、社会を突き抜けた加奈子よりもとどまった若菜のほうが深いように思われます。
そのグランドルートですけど、そんなわけでHシーンがないことは納得するんですね。擬制的な闘争に注力する以上、もはや裏側としての恋愛は必要でなくなる。もしグランドルートにHシーンがあった場合、それを蛇足に感じた可能性は高いのではないでしょうか。物語としてもあの状況でなにやってんだという話になりそうですし。
……いやまあ、「エロゲとして」どうか、というのはそのとおりにちがいないわけですけれども。