22.JUL.2010
センターオーバーのホームラン、あるいはプレイの饒舌のために
2010年6月6日はわたしがはじめて実戦でホームランを打った日として(わたしのなかで)永遠に記憶されるべき日となった。インコースから真ん中に甘く入ってきたストレートともスライダーともつかない、投手にしてみれば失投としか呼びようのないハーフスピードのボールを引きつけて振り抜くと刹那、手にしたビヨンドマックスキングのおかげもあって打球はセンターのはるか頭上を越えていき、わたしはついに打点と得点を同時に記録する快感を得たのである。残念ながらフェンスオーバーではなくランニングホームランという形だったけれども、それはグラウンドがホームとセンターを対角線にしたレフト側の狭い(といってもそこそこの距離はある)長方形であることが理由であって、飛距離自体は普通にフェンスがあれば越えていただろうほどに十分すぎるほど出たからわたしの満足が減じることなどいささかもないのであった。ど素人ながら会社で野球を始めて5年、学生時代に知り合いに誘われて少しだけ参加していたころから数えれば8年を経てのことである。とりあえずは筋トレの成果が出た、ということにしておこう。頭脳労働者が30手前にしてなにをしているのか、わたしの腕はとつぜん目覚めたトレーニングによってここ2~3ヵ月で見違えるほど太くなり、当初2kgだったダンベルは気づけば10kgになっていて、いまさらに増量しようか思案している。
一時期話題になった2ちゃんねるの「なぜか読めてしまう文章」のコピペ(*1)のカギは、言語そのものの持つ冗長性にある。『宇宙を復号(デコード)する』(チャールズ・サイフェ著/林大訳、早川書房、2007年)によれば、「あらゆる言語の文はつねに、それを解読するのに必要な分を超える情報が含まれ」る、すなわち冗長性をもっており、そのため「メッセージが部分的に環境によってかき乱されていてもメッセージが理解しやすくなる」。「こんちには」という損なわれたメッセージを「こんにちは」へと正しく読み換えることができるのは、「こんにちは」が昼の挨拶というピュアな情報だけをもっているのみならずその配列自体に構造・規則・パターンを有しているからで、校正を生業とする者――たとえばわたしのような――にとってきわめて厄介なことに、読み手は無意識のうちにその規則を壊れたメッセージに当てはめて修正を施しているのである。雑音の中で相手の声をうまく聞き取れなくても話を理解できるのも、正確を期しているはずの優秀な校正者がありえないような誤字脱字をうっかり見落とすのも、それでわたしが反省モードに突入しなければならないのも、すべて冗長性のおかげだ。言語は、ピュアな情報をより安全に伝えるための堅牢な規則と構造を内包している。サイフェは、冗長性を「安全装置」だと述べる(*2)。
逆に言えば、規則と構造、すなわち冗長性を手がかりにすることによってわれわれは言語から情報をより正確に取り出すことができる。古来暗号作成者の悩みのひとつはそこにあった。第二次世界大戦までに威力を発揮したもっとも有名な暗号作成装置であるエニグマは、力任せの総当たりでは最大3×10の114乗通りのパターンをぶつけなければ暗号文を平文に戻すことができないが、結局はアラン・チューリングの手により戦争中に理論的に解析された。エニグマを無力にするためには実機や暗号文の入手といった物理的なアプローチが不可欠であったが、それだけでなく「暗号文での「A」は絶対に平文で「Aではない」」というわずかな機械的欠陥や、入力者の打鍵の癖、はたまた通信時に同じようなパターンで天気の記述をすることなどから見出された情報以外のほつれ=冗長性もまた解読の手がかりとなった。情報の抽出に構造や規則やパターンが利用されたのだった。
冗長性は安全な情報伝達のために重要な役割を果たすが、それを取り払っても情報は保持される。直感的にわかるとおり、これはデジタルデータ圧縮の基本的な考えかただ。単純化すると「110110110110」という情報は「110×4」にまとめてしまえば、記述を短くしつつ情報はそのまま保つことができるわけである。JPEGなどの非可逆圧縮では、人間の知覚では判別できない部分のデータを間引くことで、情報を大きく損なわずにデータ量だけを小さくする。われわれは細かな違いの部分を間引かれた花の写真を見ても、それが花だということを正しく受け取るだろう。もしかすると美しさが減じていると感じられる敏感な人もいるかもしれないが、「そこに写っているもの」という情報の本丸は失われずに残っている。冗長性だけを排除したときに現れる核が、間引いてしまうとメッセージの理解が阻害されてしまってそれ以上圧縮ができない部分、すなわち情報である。
わたしの所属する草野球チームでは試合のたびに結果を記録して成績をつけており、もちろん記念の本塁打もスコアブックやそれを基に書き直したチームのボックススコアに6回裏1死一塁から飛び出したことが刻まれている。わたしのプレイはたしかに「記録」された。情報と冗長性の関係から野球を照らしてみたときに、はたしてその記録はいったい何を意味するのか、このエントリではちょっと穿って野球を見ることを目的とする。
とあるボックススコアに「中本3」という記述があるとすると、野球を知っている人は当然それが「センター方向に飛んだ3点本塁打」であることを理解するだろう。普通のボックススコアであるなら前後にどのようなプレイがあったかもきちんと記されているから、その本塁打が何回の何アウトのときに生まれたかもわかるし、すこし詳細な記述がされていればどの塁に走者がいたとき――一、二塁か一、三塁か二、三塁――だったかも、スコアと一緒ならば試合の中でどのような意味を持つ――先制か逆転かダメ押しか、それとも逆転サヨナラか――のホームランだったかも即座に把握されるはずだ。毎年ベースボール・マガジン社から発行される『ベースボール・レコードブック』のページを繰ってみてほしい。そこには前年に行われたプロ野球のすべての公式戦の記録――日時、球場、出場選手、守備位置、打順、打撃結果、投球結果――が載っていて記録マニアの心をくすぐるが、こうしたプレイ記録は、端的に言うと野球と呼ばれるゲームの「情報」だ。任意のシチュエーションにおける任意のプレイは、かならず任意の記法によって表記され、情報として固定化される。
将棋を棋譜という情報記録によって完全に再現できるように、ゲームの情報はそのゲームにとって根源的なものである。将棋は極端なところ座標とタイムラインが過程のすべてで身体的な技術を必要とされないゲームだから感覚的に理解されやすい(プロ棋士にまったく及ばない自覚があっても、羽生善治対久保利明の棋譜を見て対局を再現することは驚くほどたやすく、だれにでもできる)が、野球もまたボックススコアから試合を「再現」することは難しくない。もちろん、肉体的な再現は不可能だ。だがわれわれが試みるのは、ボックススコアの記述を基に任意の試合のプレイヒストリーという情報――その試合を他の試合と区別して特定できるもの――を取り出す、つまりプロ棋士の対局を棋譜から辿りなおす行為と同等の意味での「再現」である。なるほどそれなら容易であることは明らかだろう。事実、われわれは朝のスポーツ新聞を読みながら前夜見られなかった試合を頭の中で作り上げてしまうのだから。
情報をより正確に伝達するために必要なものは規則と構造だと先述した。「中本3」はそれだけでは一見わけの分からないコードの連なりに過ぎないが、野球というゲームの規則・構造を当てはめることでそこに意味を認めることができるようになる。実際、野球は他のスポーツ競技にくらべてあまりに構造的だ。公認野球規則とサッカー競技規則のページ数の違いはそのことを明確に表していて、用具やフィールドの定義を除けば、サッカーの競技規則が「反則行為は何で、あとは全部ボールインプレイ」としか言っていないようなものであるのに対し、野球規則には「どのようなケースにアウトになるか」(規則6.05や7.08他)、「得点はどう記録されるか」(4.09)など、ゲームで起こりうる可能性がシチュエーションごとに区切られた形で規定されている。意外なことに規則のなかで守備位置の定義はされていないのだが(*3)、そこはわれわれが知っている野球のポジションと、慣用的に使われる野球用語を規則と組み合わせることによって解決する。ある回が「中安→二併→左飛」となっていれば、センター前ヒット、二塁手への併殺打(遊撃手がひとつめのアウトの刺殺者である可能性がきわめて高いが、その情報はさすがに失われてしまっている。より詳細を知りたいならば、圧縮度の低い情報、すなわちスコアブックを見るよりない)、レフトフライで攻撃が終了し、0点に終わったことがすぐわかるわけだ。こうして野球の規則と構造を利用することで、すべてのプレイを短いメッセージにエンコードでき、また逆に短いメッセージから試合の情報を非常に少ない損失でデコードすることができた。スポーツ紙もボックススコアをコンパクトに纏めることで紙面を有効活用できレイアウトの自由度も上がる。
しかし。ここでひとつの疑念が生ずる。野球を圧縮したときに残る根源的な情報が2~3文字の記述であるということは、圧縮時に不要な要素として排除される冗長性に野球のプレイそのものも含まれることになってしまうのではないだろうか。つまり、野球の本質にとって不要なのは、野球を野球たらしめていたはずの運動ということなのか? この問いはいかにもニヒルで、不愉快極まりないように思える。だが、わたしはこれをあえていったん肯定しよう。荒唐無稽であろうとも、わたしにはプレイを取り除いた「野球」をずっと楽しんでいた過去があるからだ。
子供のころ、わたしと友人2人の放課後の日課は何をおいても『実況パワフルプロ野球』で、それぞれ「サクセス」モードで作ったオリジナル選手だけで揃えたチーム同士でリーグ戦を行って詳細な個人成績も残していたのだが、3人の仲間で横浜ベイスターズ、広島カープ、中日ドラゴンズを使っていたということは当然読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズ、阪神タイガースが余ってしまう。とはいえ「自分のチーム」でもないのに対戦する気は起きないし、後者3チームだけ実在選手(さすがにそこまでオリジナル選手にする手は回らなかった)なのも気に入らなかったので、『ベースボール・レコードブック』を参考にしつつ選手と試合結果を「捏造」していたのである。ポイントはそうやってゲームを省略してしまっても、しばらく経ってリーグ戦は無事終わってしまうことだ。残しておいた記録の整合性(おもには「リーグ総打席数=総得点+総残塁+総イニング×3」「総刺殺=総イニング×3」となっているかどうか)にも問題はなく、3人で優勝者や個人タイトル獲得選手の作成者を讃えあうことができたのだった。
この遊びは、野球がプレイを省略してもなお競技に本質的な部分を残してしまえるのかどうか、野球にとってプレイが冗長であるのかどうかという先の設問に対し大まかにはイエスの回答を与えるものだ。わたしたちの遊びはやや極端な例かもしれないが、別のアプローチを取って野球を「シミュレート」することを想定すればよりよく理解されるにちがいない。たとえば『ベストプレープロ野球』で遊んだことのあるひとなら、そのゲームが「ベストプレー」というタイトルとは裏腹にプレイそのものを不要としていたことは思い出せるだろう。粗いドットで描かれる画面のなかで重要だったのはなによりも個々のプレイを捨象することであった。そこでは、打球の強さも方向も、投球の球速も変化球の曲がりもパターン化されてひとつの結果を導くように収斂していく。そこにあったのは象徴としてのセカンドゴロであり、一般化されたセンターフライであり、匿名的なライト前ヒットだった。乱暴に言えばドット絵などなくてもよい。そうであっても9イニングは戦われ、試合は唯一無二のものとしてたしかに記録される――プレイヤーにとって必要なのは結果の集積だったのである。野球は、構造的な一般を54アウトにわたって積み上げることによって試合を固有化する。運動も、試合の記憶も必要ない。その近鉄対オリックス戦を一切を見ていなくても、あの大阪ドームの異様な熱気を感じていなくても、北川博敏のバットが代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打を生んだことはわずかな記述によってたしかにわかる。ただただ規則と構造によって、野球は理解されえてしまう(*4)。
野球は否定しがたく構造的で、構造の下位にプレイがあり、結果としてプレイそのものを冗長な、省略可能な要素としている。だがもちろん、それは野球のプレイが無価値であることや野球の観戦が無益な浪費であることを意味しない。先程の問いは反転されなければならない。草野進(蓮實重彦)や渡部直己らが1980年代に繰り広げた野球批評の刺激は、構造的な情報化の狭間で淡く消え去ってしまうプレイという瞬間の運動をひたすらに称揚することで生じていた。野球の官能は、理不尽に過剰な走塁を伴う三塁打に、高田繁の殺意に満ちた送球に、槙原寛己のバックネットへの大暴投にこそ宿ることを、彼らの批評は知らしめている。
その批評は、もしかすると歴史を語ることにも似ているだろう。そう、冗長性は安全装置である。事象の裏で排除されかけた冗長な語りを掬いあげる歴史家の仕事によって、歴史はより正しく、より安全に、そしてたぶんより美しく語り継がれていく。われわれが引きつけられる「歴史」とは、情報以上にその情報を取り巻く冗長性の部分に他ならない。冗長を冗長なまま語ることによって、歴史は意味を付与される。三塁打という過剰な運動が草野進を引きこんでしまうのは、それが情報ではなく、消えてしまえばもう取り戻せない冗長だからと言えるだろう。野球の本質にとって、プレイは必要とされない省略可能な要素に違いない。だが本質などに語るべきものはないのだ。このボールゲームをより正しく、より安全に、そしてたぶんより美しく語り継いでいくために――野球という営みを擁護するためにこそ、プレイは欠くことのできない、甘美で贅沢な余剰なのである。
(*1)「こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。/この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか/にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば/じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて/わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす」というもの。
(*2)最近にあって安全装置としての冗長性の重要さをもっとも知らしめた存在といえば、先日地球へと帰還し大気圏で燃え尽きた工学実験探査機「第20号科学衛星MUSES-C」いわゆる「はやぶさ」だろう。世界の宇宙開発史に大きな一ページを刻んだのみならず、ドラマあふれる長い旅で一躍日本のヒーローにさえなったこの宇宙船は、帰路4基搭載されたイオンエンジンのうち3基を故障したが、うち2基の生きている部分どうしを繋ぎなおして1基分とし、帰還に必要な推力を取り戻した。この蘇生を可能にしたのは、ぎりぎりのペイロードの中で「こんなこともあろうかと」と用意していた迂回的な装置のおかげであった。
(*3)もちろん投手と捕手以外の守備位置は自由だからという事情はあるだろう。だがたびたび登場する「プレイ例」で何度も「遊撃手」「左翼手」などと書いてあるにもかかわらずその定義がなされていないのは、「規則」として看過すべきではない瑕疵だと思われる。
(*4)たとえばサッカーの場合はそうはいかないのだ。プレイヤーの自由な振る舞いが前提とされるサッカーでは一般的なスコアの記述を見てもプレイヒストリーは辿れない。情報は必要以上に圧縮されてしまって原型をとどめておらず、再構築は不可能だ。サッカーは構造性が希薄なゆえに、結局試合を再現するにはプレイそのものを逐一記録しておくしかない。いわばプレイそのものもまた情報の本質で、冗長性を持っていない。