SEP.11.2008
ゲームとは操作にほかならない
おそらく(すくなくとも現状の、そして日本の)ゲームにおいて、「レース」、とくに自動車でのそれほど一人称視点がふさわしいジャンルはないはずであり、いま発売されている正統派レースゲームはことごとく「自分のキャラクターが見えない」一人称視点をメインに採用している。翻ってほかのジャンルを見るとその名のとおりFPSと、それからギャルゲーががんばっているくらいだが、しかしFPSの場合わざわざ「First Person」と名乗ることで逆にジャンルの特殊性が浮かびあがってしまっている――FPRなどという区分は存在しない――わけで、けっきょくのところプレイヤーの操作スキルが攻略に直結するゲーム(ギャルゲーはそうではない)のなかで総体として一人称視点が自然に受けいれられるジャンルはレースだけだといっていいだろう。その理由に氏が指摘するような「臨場感」や「その車に乗車して運転しているような感覚」の演出を見出せることはもちろんだが、しかしそれ以上にゲームが内包する「視点そのもの」の問題さえ見えてくるはずだ。レースゲームはなぜ一人称視点を採用するのか、そしてそもそもゲームにとって一人称視点とはなんなのか。
※なお先に整理しておくと、以下の文章ではとくに断りのないかぎり、
・ドライバー=現実にクルマを運転する人
・クルマ=現実の自動車
・プレイヤー=モニタの前に座ってゲームを操作する人
・キャラクター=プレイヤーに操作される対象
・運転=現実でのクルマの運転
・レースゲームのプレイ=ゲーム内での運転
を想定している。
レースジャンルで一人称視点がきわめて有効に機能する理由として、まずは当然ながらドライバーとプレイヤーを完全に同一視しやすいことが挙げられる。だがそれは単純にクルマを運転するのが自分自身であるという意味ではなく、「レースゲームがつながる現実」で書いたように「プレイヤー/画面」の入力/出力の対応と「「キャラクター」=ゲーム内のドライバー/行動結果」のそれがおなじようにできていることを含意する。野球のプレイと野球ゲームのプレイが完全に別の運動になってしまうのと対照的に、クルマの運転とレースゲームのプレイは、どちらもある入力を機械に与え出力された物理現象に反応して次の入力を機械に指示するという操作を連続的に繰りかえす運動で構成されているという点で基本的に同質のものである。前に書いたことを繰りかえすなら、現実の世界でどれだけ×ボタンを押してもわれわれ自身はけっしてボールを投げることができないが、入力と出力の関係を適切に設定すれば理屈としてはプレイステーションのコントローラで本物のクルマを運転することが可能ということだ。ようするに、たとえば4/9に書いたエントリ「血統論は現実のなかに境界を形成する」で競馬ゲームが現実の記述を内部に導入していることを指摘したのとおなじ構造でレースゲームは運動の方法そのものを現実からトレースしている(*1)のであり、このように「ゲームが記述しなければならないこと」がすでに現実のなかで記述されており、ゲームの外側に位置する自分とその内側に入りこんでいる仮想的な自分とがまったくおなじ運動の行為者として振る舞えるから、それをじゅうぶんに表現できる技術がともなうならばレースゲームでもっとも自然な視点は必然的に一人称のそれとなる(そしておなじ理由の裏返しで、『マリオカート』では一人称視点を採用しづらい)。
……以上でレースゲームにおける視点の問題にとりあえずの有効な解答を与えられたと思うものの、しかしやはりこれだけでじゅうぶんともいえない。ここまでの話はレースゲームが有する内部構造的な特徴に依拠しているが、同時に外部的な要因については触れていないからだ。ゲームがプレイヤーとハードが絡みあう営みであるとするならば、やはりその観点を看過するわけにはいかないだろう。そこでハード的な思考として、プレイヤーとゲーム画面の位置のズレという観点を導入してみることにする。
ゲームが遊ばれるとき、たいていの場合プレイヤーはモニタから1.5mくらい離れ床に座っている。あらためて確認するまでもなく自明のことだがプレイヤーとモニタは物理的に隔たっているのであり、その意味で、「一人称視点」が採用されていても「プレイヤー」(モニタの外側)としての基点と「キャラクター」(モニタの内側)としてのそれはかならずしも同一の座標に置かれていない。われわれはプレイヤーであると同時にキャラクターでもあるはずだが、プレイヤーはつねにキャラクターの後方にとどまることになる。一致するはずの人格が座標としては一致しない。距離にして1.5mのこのズレは、ほんらいゲームに完全な一人称視点を設定させることを拒否する。これはゲームがプレイヤーを外部者として「も」設定する以上しかたのない現象といえる。
だがしかし、レースゲームは違和感の原因にもなりうるその距離をも有効に活用してしまう。実際にクルマの運転席に座っているときのことを思い浮かべればわかるように、プレイヤーとモニタのあいだにある空間は、擬似的にではあるものの運転席から車体までの距離として認識することができる――たとえば、プレイヤー-モニタ間の距離=ドライバー-フロントガラス間の距離、というように。もちろん、その距離の数値自体を比較しても等しくはならない。ふたたび運転席からの光景を思い出せば、フロントガラスとは1.5mも離れていないし、そもそもゲームのときはあるていど自由にモニタとの距離を変えられるから、比較じたいが無意味といえる。だが焦点は距離の大小ではなく、「距離があるという事実」そのものである。運転席と車体が、またプレイヤーとキャラクターがそれぞれに隔たっているということは、ドライバー/クルマの関係とプレイヤー/キャラクターの関係が等しく対応することを意味するだろう。
しかし、そうなるとここまでの話で設定していた前提がひとつ狂ってくる。ドライバー/クルマ=プレイヤー/キャラクターが成立するということは、レースゲームで設定されている視点、一人称の主体として振る舞っている「キャラクター」の正体がドライバーではなく「クルマ」のほうだということを示唆してしまうのだ。われわれが『Forza Motorsports2』をプレイするときに「車内からのビュー」だと思っていたはずの視点は、じつは「クルマそのもののビュー」だったのである。プレイヤーとキャラクターは、「同一であるにもかかわらずちがう座標に置かれている」のではなく、そもそも別個のものであって存在が一致していない。
一致するはずのプレイヤーとキャラクターが分離する――しかしこの事実はレースゲームにおいて瑕疵になるわけではなく、それどころかむしろ非常に重要な意味を持ちうる。その可能性を考えるために「血統論は現実のなかに境界を形成する」を確認しておきたい。競馬ゲームについてまとめたこのエントリでは、「世界を記述しようとする」行為によって世界と世界を記述した結果のあいだにズレが生じること、さらにはそのズレこそがゲームそのものだという趣旨のことを示し、そのうえで、現実の競馬における血統表はそれじたいがすでに記述だから血統表を共有する競馬と競馬ゲームはずれることなくダイレクトに接続されると述べた。ここに見られる「現実に内包されるズレ」という構造は、そのままクルマの運転にも適用できてしまう。もともと運転は、無関係であるはずのドライバーの運動とクルマの運動が適切に対応するように機械が変換することで成立している。命令する人間と実行する物体は同一ではなく、だから両者の運動もまたつねに一致しない。たとえば左に曲がるとき、ドライバーは目の前にある円形の物体を回すという、肉体的には転回とまるで無関係な動きをする必要があるが、その結果としてクルマのタイヤが左に向き左折が可能となるわけだ。このように、クルマを運転するときドライバーの振る舞い/クルマの振る舞いはつねにずれていかざるをえない。既述のとおりこのズレはすでに現実に内包されており、その理由は現実の側で「記述」でなく「操作」がなされているからということになるだろう(あるいはこういういいかたもできる、「操作は記述の一形態である」。個人的信念としてはこちらのほうが近い)。
レースゲームは競馬ゲームがしているのと同様にこの操作(記述)の構造を丸ごと取りこむことで現実と直結しているが、しかしなぜ取りこみが可能なのかという疑問は残る。競馬ゲームの場合、キーとなるのは血統表であった。現実の競馬でもゲームの競馬でも血統表という装置が共通して存在し、しかもその血統表が記述の役割を果たしていたからこそ、競馬ゲームはそれを媒介にして現実を回収できたはずだ。ではレースゲームは? ここで「プレイヤー/キャラクターのズレ」が意味を持ってくる。あらためて確認しておこう。プレイヤーがドライバーに対応し、キャラクターはクルマに対応する。それぞれの運動を媒介するのが現実ではクルマの機構で、ゲームではゲーム機ということになる。この対応関係は、プレイヤーとキャラクターがしっかりとずれているからこそ機能することに注意したい。プレイヤー=ドライバー=キャラクターとしてしまうと、クルマの存在が消えてしまう。運転においてドライバーにとってのクルマがそうであるように、レースゲームのキャラクターはプレイヤーの「代行者」ではなく、あくまで「操作対象」である――プレイヤー/キャラクターのズレによってそのことが顕在化し、その結果レースゲームは現実をそのままゲームの側へと取りこむことに成功して、現実もまたゲームに表現されることを許容する。共通の構造を持つためにレースにおいてはゲームと現実の交換可能性がきわめて高く、ゆえにそれらを重ねあわせられる可能性もまた高い。だとすれば……結論は上述したものとおなじだ。もっとも自然な視点は、やはり一人称にちがいない。
クルマの運転、いや運転にかぎらずなにかを「操作(記述)する」行為は、つねに入力と出力の関係にズレを孕むためにそれじたいがすでにゲーム的な営みということができる。この「操作(記述)する」という部分が現実とゲームで共通化されたとき、ふたつの世界は重なっていくだろう。一人称視点とはいわばその証明である。レースゲームは、操作/被操作が内包するズレを丸ごと回収するようなその視点を獲得することで、みずからが現実のシミュレータとなること、そしてまた現実の代替にさえなりうることを主張しつづけている。
(*1)野球ゲームやサッカーゲームは競技規則を現実から導入しているだけといえる。
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