19.JUL.2008
勇者のために世界はあるか
そのナンバーがはたして『2』『3』だったか『4』だったか、はっきりとは覚えていないのだけれど、画面に表示されるテキストでわたしが「屍」ということばを知ったのは、たぶん『ドラゴンクエスト』(以下『ドラクエ』)によってだったと思う。そう熱心でない『ドラクエ』プレイヤーですらすぐ思い浮かぶだろう、息絶えた人間に対して「はなす」ときに出てくる「へんじがない。ただのしかばねのようだ」という例の定型メッセージ、あれを目にしたのが「屍」という語彙をきちんとそれとして認識した瞬間だった。
なにも10歳くらいの子供がそこで高尚なことを考えるはずもないのでとうぜんに後付けなのだが、しかしその場で志半ばにして息絶えた戦士と自分が動かしているところの勇者(か、あるいはライアンとかアリーナとか)を分かつものとはいったいなんだったのかとふと思うわけである。勇者だって、ダンジョン奥深くに迷いこんで刀折れ矢尽き(いやしかしこういうよけいなことをついついいってしまうなら多くのRPGで主人公パーティはけっして劣化しない剣と無限の矢を携えているのがふつうで、それはもちろん『ドラクエ』においても変わらないのであるが)、ついには薬草も使いきって奮闘むなしくHP0になれば死ぬことになる。すくなくとも『ドラクエ』においてそれは文字どおり「死」であって、なぜならはっきり書いてあるからだ、「○○はしんでしまった!」。ステータスを表示するウインドウが赤く染まるこの瞬間、われわれが動かす勇者とそこで倒れる名もなき戦士がおなじ絶命という運命をたどったはずだと感じるのはきわめて自然なはずである。つまりどちらも何を成すことなく斃れ、やがては風化して土に還るべき遺体となったと認識すべきなのだ……が、そうではないことは『ドラクエ』をいちどでもプレイしたことのあるひとならすでに知っているだろう。勇者一行は、教会に戻ったり、あるいはザオラルやザオリクといった呪文を唱えたりすることで生き返り、何度でも生を得ていたのだ。パーティの全員が息絶えてなお、何者かが教会などへと運びこんで冒険の再開を約束してくれた(蘇生したときなぜか所持金が半分になっていてかっぱらったのはてめえか聖職者とか神父に難癖をつけたくもなるのだが、それはまあともかく)。『ドラクエ』に「over」はなかった。
たとえば『ドラクエ4』で子供の大量失踪事件を調査すべくライアンをとある塔へと進めると、奥へと進む途中で屍になった兵士を見つけることができたはずだ。それが彼の同僚だったか先輩だったか、あるいはまるで無関係な人物の死体だったか記憶はまったく定かではないものの、ともかく彼はそこで倒れてしまい、事件の解決を見届けることなく息絶える。われわれは彼の最期のことばを確認して(それがいまわの際の声だったのか事切れたあとに通りかかって生前残してあったメッセージを受け取ったのかの記憶もはっきりしない)ライアンにその脇を通り抜けさせていたわけだが、そのときちょっとした罪悪感を抱きながらこう思ってもよいはずだ――彼を教会まで運んで生き返らせられないのか。べつにおかしな発想ではないだろう、自分はそうなのだから。自分とおなじように、無念の最期を遂げたはずの彼もまたおなじように救われて冒険を再開する資格があるはずではないか……。もちろん、それは無意味な願いである。そう思ったところで果たすすべはどこにもない。おそらく彼はたんなる物質と化し、やがて朽ちていくほかないだろう。あるいは腐臭を好む怪物に死肉をあさられ、そこにいた痕跡さえ残らないかもしれない(そういえばむかしのゲームでは(というかいまでさえ)よく、死は画面から文字どおり跡形もなく消えることで表現されるのであった)。
ライアンは生き返ることができるのに、戦士Aはそうではない。難解な問題なようだが、じつのところそういうあからさまな相違は彼らのヒロイズムの有無に還元することが可能だろうし、その捉えかたでかなり正確だったりする。『ドラクエ』の画面のなかに展開しているのはまぎれもなくひとつの世界だが、その世界は同時に画面の前にいるプレイヤーの存在に依拠している。だからライアンは特別だから生き返ることができ、名もなき戦士はそうでないからいちど死んだら終わりなのだという意見は、ライアンのほうを主人公として認識するわれわれに対してならばじゅうぶんに説得力を持つ。主人公が死んだままでゲームが止まってしまうのはプレイヤーにとってきわめて困った事態だから、生き返ってゲームが再開されるということにはプレイの観点からじゅうぶんな合理性を見いだすことができ、そのことをもって主人公が蘇生可能性を持つ唯一の理由とすることができるのだ。われわれが操作するゆえに、そしてそのことによってのみ、ライアンは何度でも生き返る権利を得ている。重ねていうがそれがたったひとつの理由であり、そこを拡張してはならない。この時点でライアンが特別たりうるのは、ゲームをプレイするわれわれによって偶然(たとえ実質的に選択肢がなかったとしても、その世界からひとり選ばれたという意味ではやはり偶然だ)ヒーローに選ばれたからであって、ライアン自身が『ドラクエ4』内世界において固有に特権的な地位を有しているからではないのである。ライアンの蘇生はあくまでメタな視点からのみ許容されている。つまりもし「死んだはずの戦士」を主人公として操作する「もうひとつの『ドラクエ』」がどこかにあったとしたなら――そのような可能性は仮定の中にしかないが、しかし存在を想定することはたやすい――われわれは戦士Aをこそ生き返らせるべき主人公とみなして操作し、ライアンが不可逆な生命の喪失によって冥界へ旅立つのを見送ることだってできたかもしれないのだ。
このことはむしろ『ドラクエ3』で考えたほうがわかりやすい。バラモスを打倒すべく勇者と同行する3人は、アリアハンでルイーダに斡旋してもらっただけのたんなる戦士のはずだ。そこに固有性がまったく存在しないことや、メンバーを容易に入れ替えられることからもわかるように、ある瞬間に冒険している4人のパーティが唯一無二の伝説的なものと信じる理由はどこにもないだろう。それでもそこにいる彼らは選ばれなかったほかの戦士たちとはちがってたとえ命を失っても幾度となく蘇ることができる。それはあきらかに特権だが、しかしその特権は彼ら自身の性質として獲得したものではなく、プレイヤーに選ばれて「主人公」として振る舞うことを許されたために持ちえたものにちがいない――なぜならもしプレイヤーの与り知らぬところで行動するならば、彼らにとって最初の死がそのまま唯一の死を意味することになるだろうから。「主人公」の特権性は、プレイヤーという観察者との関係によってのみ機能する。それはかぎりなく外的なメッセージであって、世界の内部に主人公はいないのである(たとえば参考、『ケロロ軍曹』14巻pp.79-80、日向冬樹の「オカルト研究レポート」における記述)。登場人物にじゅうぶんな個性が与えられているようなRPGでもそれは原理的に変わらない。主人公だからプレイヤーが操作するのではなく、プレイヤーが操作するから主人公と呼ぶ。
主人公とはそう見えるだけであって実体がある存在ではないことに、われわれはしっかりと注意を払わなければならない。なぜなら、主人公の特権性を排除し、ゲーム世界をフラットなものとして俯瞰することで世界の解釈可能性を一気に拡大できるからである。主人公が偶然の選択によってしか現れないとするなら、われわれは「ライアンに救われたイムルの村の子供たちが成長して魔王を倒す」というストーリーさえ、『ドラクエ4』でありえた物語として想定することができるだろう。もしくは勇者は育った村の襲撃で死んでしまったが、またべつの戦士が立ち上がって魔王を討つかもしれない(あきらかに世界が滅びようとしているときに座して死を待つ人間ばかりではあるまい、たとえ力及ばない可能性が高くとも)。このようにあらゆる並行性を可能とする世界は、きわめて豊かな相貌を持つ。だから勇者もまた世界のone of themであって、彼が魔王を倒すことさえ偶然の可能性のひとつ(もちろん蓋然性の高さに言及することは否定しない)であることをつねに意識しておくべきなのだ(これは(わたしはプレイ経験がないことを断っておくが)オンラインRPGにとって必須の考えであるはずだ。多数のプレイヤーが参加するゲームで、ひとりを内部的に特別な存在として扱うわけにはいかない。それぞれのプレイヤーにとってそれぞれのキャラクターが特別なのだ)。
勇者といういかにも特権的な存在は認めるしかないとしても、しかしほかの7人が「導かれし者」とされていながらもどこか凡庸さを残していたことで(トルネコなどそのへんの太った武器屋だ)すくなくともかつての『ドラクエ4』にはぎりぎり解釈可能性が残されていたと信じられた。だからこそ、仲間とも話ができるようになっているDSでのリメイク版でブライが道中「おれたちエリートだから教会とかザオリクで生き返れるけど平民はそうじゃねえから」(意訳)のような台詞を吐いてあらゆる可能性をすべて否定したことを、きわめて残念に思う。ブライはここで、ゲームプレイヤーの視点による偶然ではなく世界の内部においてア・プリオリに必然化された特権的「生」の持ち主がいることを、しかもそれが自分を含む集団であることまで明白に表明してしまった(*1)。
この瞬間『ドラクエ4』の解釈可能性は一気に収束し、天空人の血を引く勇者と「導かれし者」で構成されたパーティでしか魔王を倒せないことが、この世界がたどる唯一の運命と決定されたのだ。もはや勇者以外の人物がおこなうあらゆる旅は無駄であり、彼(女)らの道中における無念の死も決して覆されないことがはっきりした。「へんじがない。ただのしかばねのようだ」。子供のころのわたしにひとつの語彙を与えたいくつかの遺体は、蘇生の可能性を完全に失ってたしかに「ただのしかばね」でしかありえなくなってしまったのである。その屍は、もうどんな方法をもってしてもけっして蘇ることはない。ならば通りがかったときにせめて墓のひとつでも建ててやれればと思ったりもするのだが、しかしそのように感傷的な憐憫の情など、どうやらゲームは引き受けてくれないのであった。
(*1)それにしても選民意識を隠そうともしないこの台詞を、王家の姫の教育係という、おそらくその世界では相当のエリートにちがいないブライが吐くというのは露骨にもほどがあろう。
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